ベンゾジアゼピン断薬への道のり

ベンゾジアゼピンの薬害や減薬・断薬のプロセスの中で思ったこと、性別役割分業意識とうつ病発症の関係について綴ります。

『精神障害』が社会に定着しつつあることに不安と怒りを感じます

ニュースで、「障害者と一緒に働くにあたり、障害者とどう接したらいいか」を従業員に知ってもらうための取り組みを紹介していました。今回は『精神障害』について考えを書きました。

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精神障害者』として認定されたい人たちもいる

精神障害者として認定してもらいたいと考えている人は、少なからずいると思います。

「自分は精神障害」「薬がなくては生きていけない」「働くのは不安」さまざまな思いで、認定を受けていると思います。

かつて、私もそうでした。それでもなんとか働きたいと、障害者就労支援事業所に通ったこともあります。

しかし、向精神薬をやめた今、『精神障害』は、社会や精神医療によって作られたものだと確信しています。

「薬がなくては生きていけない」というのは、医者に思い込まさていた、間違った情報だったのです。事実、私は、薬をやめてから、いろいろな意味で、安定した日々を送っています。

 

精神障害』について調べてみた

有益な情報を発信するためというよりは、宣伝・集客のため、あるいは、アクセスしてもらうことでお金を稼ぐために存在するネットの世界の中で、私が比較的信頼しているのが、wikipediaです。

wikipediaには、『精神障害』について、以下の記述があります。(文字を太字にしたのは私です)

症状を呈する原因としては、先に甲状腺機能の異常や栄養欠乏、また脳損傷英語版など医学的に生じているとか、医薬品向精神薬によって薬理学的に生じているといった状態を除外して、それ以外の固有の症状であると仮定される。つまり精神の障害は、髄膜炎内分泌疾患などの身体疾患によって引き起こされる場合もあるし、単にアルコールカフェイン、また精神科の薬によって薬物の作用で生じている場合もある。それ以外にストレスによって生じたり、脳の機能的な変調によって生じている可能性もある。決定的な原因は判明しておらず、様々な仮説が検討されている状態である[5]

従って、精神障害を診断するための合意された生物学的指標(検査)は存在しない[7]。つまりいまだ、診断のための理解という部分から十分に高度というわけではなく、その基礎となる脳の研究の進展を要請している段階である[7]。軽い日常的な出来事が医療化されることに弱く、製薬会社による病気喧伝も加わって患者の数が激増している。金融危機より先に先進国各国で患者数が増加し、薬物治療は人々を復帰させていない[8]治療法も決定的なものは存在しない。自然に軽快することもある。

  『精神障害』について、確立された診断基準は、存在しないのです。

それでも、精神的に追い詰められて、精神科へ通い、薬を飲みながら、なんとか仕事に行き、または、休職・復職を繰り返したり、最後には退職に至る人も多いのではないでしょうか?

どうしてそんな事が起こるのでしょうか?「薬を飲む」ことや「『精神障害者』と認定される」ことで、「こころのつらさ」や「生きづらさ」は解決するのでしょうか?

私の場合は、薬は精神状態や健康状態を、ますます悪化させる原因でした。

 

精神障害』から抜け出す人が1人でも多くなってほしい

 『精神障害』から脱却し、恐ろしい精神医療の呪縛から解放されるためには、今までの価値観に疑問を持つ事が大切ではないかと考えています。

「上司や同僚、部下が帰らないから帰るわけにはいかない」

「もっともっと頑張らないと評価してもらえない」

「定時で帰るなんて、仕事を舐めてるのか?」

「理想のおかあさんにならないといけない」

「家事育児は女の仕事」

「家族のために我慢して働かなくては」

などなど、私たちは、他にも、もっともっとたくさんのさまざまなプレッシャーに囲まれて生きています。それはほ、とんどが理不尽で、他人本意なものです。自分を殺して生きるのが「常識人」と考えられています。私たちは、自分のためにやりたいことをするのではなく、他人の目を気にするあまり、意に沿わない事ばかりをしていると、だんだんと心が病んでくるのです。

しかし、それは本当に自分にとって、大切なことでなんでしょうか?本当にそうしたいと思ってやっていることなんでしょうか?

自分で自分を追い詰めていることが、『精神障害』『精神疾患』の根本原因だと、私は考えています。

「他人の目を気にしない」

「自分のために生きる」

というのは、言うほど簡単なことではありません。しかし、自分を守るためにはどうしても必要なことなのではないでしょうか?

人に期待されたり頼られたりするのは、とても嬉しいことです。しかし、あくまでも「自分のできる範囲」であるのが前提ではないでしょうか。私は、自分が「常識がない」「変わり者」「偏屈」などと思われて、孤独になることを恐れるより、自分に正直に生きることを選び、『精神障害者』をやめました。

精神医療のまやかしに気付き、世の中から『精神障害者』が、1人でも少なくなることを願っています。